第7回
「ACP2」
人生の最終局面における過ごし方について、非常に悩ましいケースがあります。まず、その方の意思が明確な形で、みなに共有できていない場合に起こりやすくなります。
家族がおられれば、その家族の考え方が色濃く反映されることになります。こればかりは、正解がないのが我々にとっても正直大変な作業となります。
人生の最終局面における振る舞いとして「常識的に」という言葉が許されるのなら、「誰しも痛くなく、苦しくなく、楽しく、自然な死を迎えたい」ということになるのでしょうか?前述したとおり正解がない分、この「常識的」は全ての方に当てはまらないことはあります。本人の意思がはっきりしない場合、1)ご家族の総意がこの「常識的」な範囲にあるのかどうか?の確認や、2)患者さんがそのように「常識的」なこと=人生の最終局面 を考える局面であることの説明などが、われわれに課せられた仕事になります。非常に重要な話なのにもかかわらず、その割には与えられている時間は少ないのが現状です。もう少し言い訳じみたことを言えば、苦しんだり、痛がったりするのはその方ご自身であり、たとえ身内であっても、その感覚を一緒に感じることはできません。(精神的には患者さん以上に感じる場合もあります。)どうしても別れることへの拒否反応が強く出る場合があります。全てのご家族は「苦しくなく、痛くなく、楽しく生きてほしい」はずですが、生きるということの優先順位が上がると、その前についている感覚が二の次になってしまうケースがあります。なぜなら、本人が生きるための治療をすることが、どれほど患者さん本人に負荷がかかるのかは、実際のところ解らないのです。ですので、別れへの準備が出来ていないご家族に「・・・・をすると助かるかもしれませんが、苦しむかもしれません。痛むかもしれません・・」などという言葉はかなり慎重に使わざるを得ません。