ドクター松葉のぴりからコラム

銀杏の木
耳原高石診療所
所長 松葉 和己


 師走に入って始めての月曜日午前八時半。男は、自転車を降り両手でハンドルを押しながら、大きな病院の前の広い通路を歩いていた。
 男がこの病院に患者として来たのは初めてだった。これまで数多くの患者をこの病院に紹介していた。整形外科、脳外科、眼科、婦人科、そして口腔外科。
 男は、ベテランの医師だった。自分が診療所で診た患者で、当然、癌が発見される場合もある。患者に癌を告知する時には、患者に関する、あるいは家族に関する様々な情報を集め、慎重の上に慎重を重ねて臨む。いきなり「癌です」と切り出すのは、最もしてはならないことだと信じていた。その自分が、よもや癌かどうかを診断してもらうためにこの病院に来るはめになるとは思っていなかった。
 男の舌の右横に二週間前から大きな潰瘍ができていた。ネットで検索すると、舌癌の発生部位、症状、画像が自分とそっくりだった。男は、覚悟を決めた。三十年間連れ添った妻に「ほんとうにこれまでは、幸せな人生だったと、感謝している」と言った。妻からは「舌の潰瘍ぐらいで、何言うてんねん」という返事が返ってきただけだった。
 口腔外科の診察室の前の廊下で順番を待った。男はこの二週間というもの、痛みのせいもあってか自分が高度のうつ状態だと自覚していた。
 診察室に入ると、大柄な担当医は、問診票を見て「ほう、二週間も。それはご心配でしょう。しかし、ご安心ください。私は、本当のことをはっきり言いますので」と言った。
どこが安心だ。癌なら癌と言うつもりか。
 担当医は、男の口を覗きこむなり「おお、これは」と、つぶやくと「はっきり申しあげましょう」と大声で言った。
 男は、目の前が真っ暗になった気がした。黙って宣告を待った。
「これは、癌ではありません。ただの褥創性の潰瘍です」
 男は、その瞬間、一種の脱力感あるいは虚脱感にとらわれた気がした。続いて、生気が甦ってくるのを感じた。ありがたい、まだ生きられる。
 担当医と看護師に丁重にお礼を言った。
 駐輪場の横のイチョウの木は落葉が盛んだった。綺麗だった。来たときには、気づくことができなかった。
 癌を宣告された患者の心理がほんのちょっとだけわかった気がした。

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